
11月22日(日)、現代福祉学部・馬場憲一ゼミの学生が、歴史探訪ツアー『絹の道を行く』を開催しました。八王子や相模原からの一般の参加者の方や学生など、計20数名で、明治初めから数十年、八王子・鑓水の地域に栄えた絹商人の足跡をたどりました。
現福・馬場ゼミでは、「エコミュージアム」(=地域の人々の生活と、その自然、文化および社会環境の発展過程の遺産を、博物館に展示するのではなく、現地にそのままに置いて保存・展示し、地域の活性化や文化の発展に活用する手法)の考えを基に、この秋、地域の方々と学生とで歴史を振り返る企画を立てました。その一つがこの『絹の道を行く~武相地域の文化遺産を巡る旅~』です。
八王子周辺は昔から生糸や絹織物の生産が行われていましたが、幕末の開国で生糸が日本を代表する輸出品となり、八王子から横浜の港まで、生糸や絹製品を運ぶ重要な経路となったのが『絹の道』で、その中継地点で活躍したのが八王子の鑓水地域の「鑓水商人」たちで、今回のツアーでは、その歴史をたどりました。
法政大学多摩キャンパスを出発し、まず、八王子市郷土資料館に向かいました。ここで、参加者の方々が全員集合。資料館のボランティアガイドの大高さんもここからツアーに同行してくださいました。館内の展示を導入として見た後、現存する「絹の道」の終点である大塚山公園に向かいました。
公園を目指して八王子バイパスで切り取られた山の斜面を上ると、そこにはみごとな眺望がひろがっていました。JR八王子駅前のサザンスカイタワーをはじめとする八王子の市街地が一望できましたが、かつては、大塚山公園から八王子駅方向へ街道が続いていたと説明を聞くと、うっすらと古い街道が浮かび上がってくるように感じられました。一転して振り返ると、一面を枯葉が覆う未舗装の道。鑓水方向へ1kmほど、昔もこうだったのだろうと思わせる囲気が残っていました。
街道を行く人たちの休憩所となっていた「道了堂」というお堂が建っていた跡は、今は礎石だけが残っていました。道了堂が建っていた頃を知るガイドの大高さんは、お堂焼失の顛末や、子どもの頃のお堂にまつわる思い出も語って聞かせてくださり、直接知る方が語る「土地の記憶」に参加者も興味深く聞き入っていました。
八王子市の史跡に指定されている「絹の道」は「御殿橋」のたもとまで。そこで古い道標を確認し、いよいよ一行は改めて『絹の道資料館』へと向かいました。ここでガイドの方から、鑓水の絹商人が活躍した時代について詳しく説明を聞くことができました。江戸時代、人口100万人の大消費地を支えるために周辺地域で物資生産や経済活動が発展したうち、八王子周辺は生糸や絹織物の産地となり、天保年間から鑓水の商人は栄えていたそうです。やがて、幕末の開国で輸出用の生糸需要が増えると、鑓水の商人たちは販路を海外に切り替え、横浜に生糸を送ることで大繁盛したそうですが、明治中~末に鉄道網が開通すると、輸送路としての街道の役割も、鑓水商人の役割も終わっていったのだそうです。
こうした50年程度の商人たちの繁栄の歴史はその後忘れられていたそうですが、『絹の道』の歴史として再び光を当てたのは、地元の郷土史家の橋本義夫という人物だったそうです。戦後、鑓水地区に残る立派な旧家を見て、糸商たちが活躍した時代があった史実を掘り起しました。1960年前後、多摩丘陵部の開発の波が八王子にも迫ると、かつての横浜への街道跡に『絹の道』の石碑を建立し道の保存に努めたおかげで、道が残ったということでした。
最後に参加者全員で、ツアーの感想を話し合いました。学生の参加者からは、地域外から通っていてこれまで知らなかった地域の歴史を知ることができたという声が上がりました。地域の参加者の方々では、40年以上も八王子に住んでいるが、会社に通うばかりで地域を顧みる機会がなく、初めて「絹の道」を歩けてよかったという方も複数いらっしゃいましたし、自分の出身地の絹の産地・高崎と比較する方がいたり、養蚕をしていた祖父母の記憶と重ねて「祖父母も生糸を持ってここを歩いたかもしれない」と語る方もおられました。1キロほどの道が、地域の歴史に目を向けさせると同時に、参加した方々の内なる記憶も刺激したということがとても印象的でした。「おかげで歩く楽しみを感じられた」と参加者の方々に言っていただけ、地域の方と学生との交流の機会ともなったようでした。